朝鮮学校を訪問して感じたこと
エマニュエル・パストリッチ
2018年12月に大阪の東大阪朝鮮中級学校と横浜の神奈川朝鮮中高級学校を初めて訪問した。その際に最初に私の目に飛び込んで来たのは、ろくに維持補修がなされていない建物であった。北朝鮮と結びつきがあるいう理由で朝鮮学校は公的助成の対象から外されて、「排除」という政治的圧力が地域社会に蔓延っていることをその時に知った。また、政治家の思惑に乗せられるように、この学校が日本にある他の外国人学校とは根本的に異なり危険なものであると、人々に受け止められていることも知った。
私が90年代、東京大学に留学していた時に、当時のクラスメメイトから朝鮮学校について耳にしたことをふと思い出した。クラスメイトたちは日本社会のエリートであり、また、私を有力なコミュニティーに参加できるようにサポートしてくれたこともあって、当時の彼らの話は私にとって影響力があった。東大のクラスメイトはなんとすばらしい教育を受けたのであろうかと、とても感心させられるほどであった。また、自分がアメリカ人でありながらも日本国内でも屈指の意思決定者コミュニティーの一員になれたことに心を躍らせたものであった。
そんな彼らが口にしたのは、朝鮮学校は全体主義的な場であるということであった。朝鮮学校の生徒はおかしな伝統衣装を身につけて他の人たちとは関わろうとはせず、普通の日本人との交流を拒んでいると言っていた。秘密のベールに包まれた怪しい学校は本質的にはイデオロギー的で融通性はなく、北朝鮮の陰謀の一部だということであった。
私が朝鮮学校の卒業生に実際に出会って、朝鮮学校の生徒たちが民族文化を守ろうとして受けた惨い差別について知ることになったのは、それから十年以上も後のことであった。そして直接、朝鮮学校二校を訪れることになったのは、私の人生も半分以上が経過してからのことであった。韓国人の妻と結婚してからすでに二十年以上もの歳月が経っているにもかかわらず、ようやく今回、朝鮮学校の実情を目の当たりすることができた。私には韓国で生まれ育った息子と娘がいて、韓国語はもちろん流暢なのだが、日本語はいまいち話せない娘のレイチェルを今回の朝鮮学校訪問に同行させた。
東大阪朝鮮中級学校を見た瞬間、私は東大の老朽した学生寮のことを思い出した(元々大阪市生野区にあった東大阪朝鮮中級学校は、2018年4月に大阪朝鮮高級学校校舎(東大阪市)に移転した。私が訪問したのは後者である。)。私が暮らした1987年頃は東大の学生寮はろくに修理もされていなかったが、思慮深く創意的な学生たちで溢れかえっていた(今ではすっかり離れ離れになってしまったが)。東大阪朝鮮中級学校の外観もろくに修理がされておらず、ペイントも剥がれていて、建物内部のコンクリートにはひびが入っていた。他の外国人学校とは異なり、地方自治体からの補助金が廃止されて、最小限の基金だけで学校運営を行なわなければならず、教育システムを破壊しようとする右翼勢力が相当な圧力をかけている状況で、生徒や保護者が学校維持のために奔走している。年々、朝鮮学校の生徒数減少は顕著になるが、この学校に残った生徒や保護者たちはみんなこれに立ち向かおうとする強い意志を見せていた。
一方、最近、日本との葛藤が深刻化する韓国では朝鮮学校が注目を浴びており、韓国人全体をも敵対視する日本の右翼団体に対する反感が強まる中で、韓国社会でも朝鮮学校の闘争に対して、稀に見ない共感が生じている。
私たちが朝鮮学校を訪れたのは土曜日の午後であったが、部活動に励む生徒たちで学校は活気に溢れていた。生徒たちは何時間もサッカー、民族舞踊、美術、民族管弦楽等のクラブ活動に勤しんでいた。学校の維持補修はろくになされていなくても、私の心に何か強く訴えかけるものがあった。初めはその理由が何なのかわからなかったのであるが、時間が経つにつれて、この学校の特徴を掴むことでその理由がはっきりした。この学校には商業的なものが一切なかった。学校のどこにも広告は見当たらなかった。学校が使用するイラストは工業デザイナーがデザインしたものではなく、化粧をしたり有名デザイナーの服を身にまとった女子生徒の姿も見られなかった。学校のオーナメントは生徒が授業の一環で作ったものだった。まさに、この学校は活動を通して運営を行なう小規模共同体であった。厳しい環境の下でも献身的な人々が寄り添って民族文化を継いでいこうと努めており、そこには1987年に私が初めて日本の地を踏んだ時に目にした文化が残っていた。
朝鮮学校では共同体で作った環境を利用しており、企業で生産した使い捨ての製品等は販売していなかった。三十年にも及ぶ工業化がもたらした過剰な消費文化によって日本ではすっかり失われてしまったものを私はこの学校から見つけ出すことができた。十二人の中学生からアジアの平和、学校での活動、日本社会から受ける深刻な差別への対処法等の話を聞いた。彼らは個人的な心配事についても真剣に話をしてくれた。
朝鮮学校の基本姿勢は「協力」であった。生徒同士が競い合う場であるというよりは、すべての人がチームの一員となって活動する場であった。彼らのそういった態度は個人を破壊する社会主義イデオロギーが反映されていると思う者もいるかもしれないが、今日では自己陶酔的消費文化に感化されて人間性が破壊されてしまったことを考えると、彼らの文化は斬新で心地よく感じられた。
レイチェルは韓国語で生徒たちと会話を交わした。昼食後には生徒たちが大阪市内の観光案内をしてくれることになり、娘を連れてこぞって市内に出かけた。娘は夕方8時過ぎにやっと帰ってきたのだが、生徒たちと大阪市内で撮った多くの写真を楽しそうに見せてくれた。娘は生徒たちの開放性や心から歓迎して親切に案内してくれた気配りに感動したようであった。
数日後、今度は横浜にある神奈川朝鮮中高級学校を訪れた。最寄駅で私たちを出迎えてくれたのは校長の金燦旭氏と朝鮮大学校を卒業した彼の娘であった。
二人は朝鮮語と日朝両国の歴史を教えながら地域社会に基盤を置く教育システムを構築しようと日々努力を重ねているのだが、それに対する根強い数日後、今度は横浜にある神奈川朝鮮中高級学校を訪れた。最寄駅で私たちを出迎えてくれたのは校長の金燦旭氏と朝鮮大学校を卒業した彼の娘であった。
二人は朝鮮語と日朝両国の歴史を教えながら地域社会に基盤を置く教育システムを構築しようと日々努力を重ねているのだが、それに対する根強い差別や逆境にも負けず、朝鮮学校がどうすれば生き残れるのかについてとても熱く語ってくれた。
私たちのためにわざわざタコ焼きを作ってきてくれた十五人ほどの生徒と一緒にテーブルを囲んだ。レイチェルは私のことなどそっちのけで、すぐさま生徒たちとのおしゃべりに夢中になっていた。私は校長室に行って金校長と一時間ほど話を交わしたのだが、日本で朝鮮語教育をしながら日本やその他の地域に残る帝国主義と植民地支配の遺産を正確に指摘する難しさについて語り合った。
また、金校長は自分たちが企画した日本の社会・経済問題に関連した公開セミナーの資料を見せてくれた。学校では現実問題について集中的に学習して、そして、芸術、音楽、作文等は課外活動ではなく必修授業として学ぶことに私は改めて強い印象を受けた。
数ヵ月後、私の友人である河中氏がこの学校を訪れて、生徒たちに現代アジア情勢の展望についてインタビューを行なった。
(河中葉のブロック「狂国見聞史」に載った寄稿)