お金の危機の発端

財布の中に入っているきれいな印刷された紙幣、そのお金と呼ばれるものは、どこからやって来たのだろうか?何が価値を与え、なぜそれでモノを買うことができるのか?この問いは、決して安直なものではなく、また、ひねくれたものでもなく、むしろ究極的には現実に即したものである。しかしながら、このような本質的な問いかけが、経済学の講義を行う権威者や、金にまみれた官庁の中で立派な意見を述べる政治家たちによってなされることはない。

つまり、いくらメディアが世の中で一番大切なものはお金であると我々を洗脳しても、お金そのものが話の題材になることはあり得ないということである。

お金についての問題は、古くからある。現在の通貨の危機は、価値の危機である。この危機では、秘密の儀式で、インフレという目に見えない肉屋によって、我々のお金が切り刻まれ、内臓を抜かれ、目の前で屠殺されるのである。儀式は、連邦準備制度によって、黒魔術で貨幣を刷り上げ、富裕層と銀行に無料で配ることによって行われる。

この茶番劇の恐ろしい最終段階に入ると、通貨をデジタル通貨に切り替えることが強いられるだろう。デジタル通貨は、連邦準備制度理事会の無責任な権力者によって管理されている。その権力者は、財布の中のお金を消したり、口座を凍結したり、税金や罰金のためにお金を押収したりと、思いのままに行動する権力者である。

銀行が株を買ったり、富裕層の借金を返すためにお金を印刷したりすると、皆さんの手元にあるお金、つまり預金口座のお金は、それに伴って価値が下がっていく。要するに、富裕層は、皆さんが寝ている間にお金の価値を薄めて、皆さんからお金を盗んでいるのである。彼らはこの窃盗のことを「インフレ」と呼んでいる。これは、何らかの自然の原理に従ってお金の価値が下がるという意味である。彼らに言わせれば、インフレは地震や台風、洪水や干ばつのような自然災害なのだ。

お金と価値に関するこのようなごまかしは、お金で動く専門家たちの権威ある発言によってもっともらしいものにされている。だが、銀行に預けてあるお金が天災で価値が下がったわけではないことは、誰もが知っている。銀行が何兆ドルも使って、価値のない株を買い、役に立たない武器を買い、農地を買い占めて食べ物の価格をつり上げ、住宅を買い占めて家賃をつり上げたときに、お金の価値が失われたのである。

現在のお金の危機は、過去一世紀の間にどのような過程をたどってきたのかを考えなければ理解できない。

具体的には、1913年12月23日に連邦準備制度が設立され、このような下り坂の道を歩み始めたのである。憲法に従って、貨幣が透明性のある方法で政府によって作られ、規制される連邦議会と国民に責任を持つ国立銀行が必要だった。それなのに、結局は、民間銀行が財政政策の最終決定権を持つ体制になってしまった。

悲しいことに、建国者たちのようなビジョンがある人たちではなく、狡猾で悪賢い銀行家J・P・モルガンが、国家経済の中心である貨幣を規制する体制を築いたのである。

この体制はうまく機能していたが、民間銀行がその資金力を利用して、議員、大統領、教授、ジャーナリスト、その他あらゆる権威ある人物を買収し(つまり、「ロビー活動」を行い)、この体制を後押しするよう働きかけたため、その毒がその後の一世紀の間にゆっくりと政治に浸透していき、牛を屠殺場に導くようなものとなった。

結局、米国の財政政策、貨幣の創造、流通、価値の決定は、民間の銀行家たち、または、そのような銀行家たちによって育成された財務省の役人によって決定されている。このような役人は、国民ではなく銀行に忠実である。

1930年代から1970年代まで、連邦準備制度が比較的よく管理されていた時期があった。政府の役人は、無秩序なグローバル金融の危険性を認識しており、欧州や社会主義圏での資本を管理する取組みをベンチマークとしていた。しかしながら、この偽りの国立銀行の腐敗した違憲状態は、本質的に変わることは決してなかった。ニューディール時代に取り付けられた脆弱な鎖をはずそうとしたが、1990年代に再びその醜態をさらしたのである。

銀行は、退廃的な受動的な社会で秘密裏に買収を行ってもほとんど反対されないことを知った。そしてその時、銀行は、2020年に経済だけでなく政治、教育、医療、文化の支配権を掌握することを決意したのである。

良識ある人々は、沈みゆく船からネズミが逃げ出すように、連邦政府を見捨てた。

さて、ここで貨幣の価値について話を戻そう。1879年当時、貨幣の価値は金で担保されていた。つまり、理論的には1ドル札を金と交換することができたし、時折、人々はそうしていた。ところが、大恐慌で政府と経済が完全に崩壊すると、1933年6月5日、フランクリン・ルーズベルト大統領は金本位制を廃止し、それに代わって連邦政府が貨幣を権威づけてその価値を与えるようになった。

このような動きは、恐るべき経済危機と、富裕層が全てのお金を支配しているという事実に照らして理にかなっていたが、その結果、もはやドルと結びつきのあるものは何もなくなり、政府が権威を持っているという印象しか残らなくなったのである。つまり、貨幣の本質がイデオロギー化したのである。

確かに、連邦準備制度が相当量の金を蓄積した後、ドルと金の間に暫定的な結びつきが再度構築されたが、その関係はあくまでも付帯的なものであった。市民は簡単には自分の持っているドルを金と交換するように要求することはできなかったし、その結びつきさえも1971年にリチャード・ニクソン大統領が永久に断ち切った。

財布の中の紙切れに価値を与える金や具体的な物からの移行は、いわゆる不換紙幣を生み出し、そのような結びつきのない貨幣は、その変化が気づかないほど遅かったにもかかわらず、米国社会に悪影響を及ぼしたのである。

1930年代の恐慌期、連邦政府は投機経済の崩壊で生活に困窮した人たちの支払いを助けるために、紙幣を刷りまくった。

労働者のための経済回復は成功したが、それは限定的なものであった。連邦政府の新しい役割、電化や道路建設のプロジェクトは、我々の社会に様々な影響を及ぼした。

その一方で、生活はより簡単に、より便利になり、人によってはより健康的になった。社会保障や生活保護といった制度が、有史以来、労働者を苦しめてきた深刻な貧困層に対する確かな保護を提供し、貧困層は初めて市民として扱われるようになったのである。

この経済学、お金に対する考え方は、1920年代にソビエト連邦で行われた実験の強い影響を受けており、実際にその恩恵はあった。

しかしながら、この解決策には代償が必要であった。

その結果として生まれたニューディール政策は、変化をもたらす妥協案であったが、市民に対して経済的、組織的、知的な自立をあきらめさせるものであった。市民は、連邦政府のような大きな組織に依存するようになり、後には、実質的に政府として機能する多国籍企業にも依存するようになった。

1930年当時の小規模農家は、お金、エネルギー、食糧、その他生活必需品の面で、ほぼ自立していた。農民たちの多くは、銀行や政府との関わりをあまり持たずに、自分たち自身で必要なものをまかなうことができた。このような自立した自己完結型の農民たちこそが、持続的な民主主義を実現する鍵を握っていると考えた指導者たちによって、この国は築かれたのである。このようなビジョンを我々は持ち続けるべきだった。

我が国の市民たちは食料となる野菜や動物を育て、その食料を冬の間保存することができた。市民たちは、電力会社や多国籍石油会社に頼ることなく、風車や水車、馬、そして昔ながらの人力労働によってエネルギーを作り出していたのである。市民たちは、スタンダード・オイル社のような、米国人を石油に依存させようとする企業を嫌悪していた。

我が国の市民たちは、薬草を集め、病院に行かずに病気を治療する方法を知っていた。人々は自分たちで家具を作り、近所の人が鍛造した鉄の道具を買い、必要な時には互いに品物を貸し借りした。その経済にとって、お金は重要ではなかったし、消費も重要ではなかった。椅子は100年使えるように作られ、衣服は40年使えるように織られていた。倹約は美徳であった。

ニューディール政策は、銀行によってひどく苦しめられていた人々を助けたが、その政策は、民間銀行の影響力を受け続けていた政府、特に連邦準備制度によって管理される貨幣経済への組み込みを求めるものであった。そして、民間銀行は、権力の支配から免れようとする意欲を示していた。

第二次世界大戦後に景気が良くなり、特に1970年代に米国人が政府や企業に依存するようになると、民間銀行が再び貨幣のルールを決め始め、規制当局と思われる役人たちを買収するようになった。

政治家たちは、我々が多国籍の銀行や工場農場を必要とせず、独占的な物流や流通システムに依存せず、マーケティングや販売の仕掛けに縛られず、企業が我々から搾取しようとする手段とは無関係の地域経済を構築することを決して提言しないだろう。

今日のほとんど全ての取引は、連邦準備制度によって管理されている貨幣、つまり、多国籍企業や銀行、そしてその背後に存在する超富裕層が管理する貨幣によって行われている。

さらに、ドルが世界通貨であることは素晴らしいことかもしれないが、それは世界中の多くの世界規模の銀行や移り気な億万長者たちがドルに関心を持つということであって、米国人に配慮しているのではなく、ドルからさらに利益を搾り取ろうとするためなのである。

政治家に投票することはできるし、皆さんの一票もカウントされるかもしれない。しかしながら、貨幣価値や 貨幣へのアクセスに関しては、 米国は独裁国家である。財務省、連邦準備制度理事会、金融政策を監督する議会の委員会は、多国籍の民間銀行によって、徹底的に操られている。民間銀行に買収されていない人間は、貨幣を作ったり、その価値を決定したりする過程に関わることが許されないのである。

そして、占星術よりもはるかに評判の悪い学問分野である経済学という疑似科学も存在する。この疑似科学によれば、多国籍銀行による壮大な資金の窃盗ではなく、金利がインフレの原因であり、健全な経済を維持するためには、消費と浪費をしなければならず、銀行によって管理された寄生的な物流/流通システムを通して海外から食料やその他の必需品を輸入することが成長の証であり、この詐欺が食料を自分で育て、地域経済を自分で運営するよりも、近代的で効率的なものである。

そのような作り話は、巨大な詐欺である。もし皆さんが地域でほとんどの必需品を生産し、お互いに売買や物々交換をすれば、そして皆さんの地域の銀行を協同組合として運営すれば、お金や価値は皆さんの地域に残り、ニューヨークやシンガポール、ロンドンやジュネーブの吸血鬼的な非公開資本企業に吸い上げられることはないだろう。

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